朝鮮民主主義人民共和国訪問記録と高句麗会の年表
平成16年5月12日

高句麗会事務局長 伊藤利光

高句麗会関係年表

1985年9月より2004年5月(昭和60年より平成16年4月)

高句麗文化展開催 1985年より1987年(昭和60年9月より昭和63年5月)

日本の主要都市 東京、大阪、京都、神戸、名古屋、福岡、新潟、石川、島根、鹿児島、岡山で「高句麗文化展」を開催主催 高句麗文化展実行委員会高句麗文化展実行委員会会長 江上波夫理事長 文東建企画運営 大日本印刷・NHK文化センター(社長堀四志夫)・日本ニューメディア(社長伊藤利光)

シンポジゥム 1985年9月14日・大阪
「高句麗と古代日本文化」

阪急文化セミナー10周年記
場所 宝塚小劇場
後援 日本文化センター・日本ニューメディア
基調講演 高句麗の古墳壁画について チュヨンホン
コーディネーター 上田正昭
パネラー 網干善教・井上秀雄・上原和・キムシャッキョウ・チュヨンホン

シンポジゥム 1986年5月24日・東京
「高句麗文化と古代日本」

後援 読売新聞社
場所 日本プレスセンターホール
基調講演 騎馬民族国家の王統 江上波夫
     高句麗と古代日本文化 チュヨンホン
コーディネーター 上田正昭
パネラー 網干善教・上原和・佐伯有清・キムギルヒョン・ソンリャング
通訳 高寛敏

シンポジゥム 1987年10月6日・京都
「高句麗と古代日本文化」

場所 京都会館
後援 京都市・京都新聞社・KBS京都
コーディネーター 上田正昭・キムチョルシク
パネラー 久野健・森浩一・坂本義種・西谷正・永島暉臣慎・チュヨンホン・パクシヒョン・チョヒスン・通訳 高寛敏

 以上のごとく高句麗と古代日本についての初めて、本格的な研究の始まりともいうべきシンポジゥムが3回続けて行われたが、高句麗とはどんな国であるか、簡単に返事ができるものではない。江上会長が言う様に「高句麗はツングース系の騎馬民族で大和朝廷そのものである。」。司馬遼太郎がある対談でこの説に異議を唱えた人に対して「しかし江上説は日本人が発想した20世紀最大の仮説です。」と答えた。

 私はこれからも高句麗と日本という大テーマーを追うのではなく、故郷日田の装飾古墳との関係を考えて見るつもりである。さて高句麗とは何かを、高句麗会の会員であった東潮の「高句麗の歴史と遺跡」巻頭の説をもって答えとしたい。

 「高句麗は、古代東北アジアにおける大国であった。百済、新羅とならぶ朝鮮三国のひとつとして知られるが、なかではとりわけ早くに政治的成長を遂げた。鴨緑江の中流域およびその支流渾江の流域などの谷部や山地を本来の住地として紀元前一世紀の初めに興起し、668年に内紛を機に、唐、新羅の攻撃を受けて滅んだ。700年余におよぶその興亡は、激動する東北アジア史のなかでひときわ光芒をはなち、しばしばそれを規定した。盛期である五世紀を前後する時期には、南北朝時代の中国王朝を中華とあおぎつつも、周辺の諸国に対しては、自らを中華と任じた。

 そのころ実現した最大版図は、西北は遼河、東北は牡丹江方面、さらに南は朝鮮半島中南部にまでにおよぶ広大なもので、現在の中華人民共和民国(中国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、大韓民国(韓国)の三国にまたがった領域を擁していた。政治、経済、文化の中心である王都にかぎっても427年までは中国東北部に、それ以後は北朝鮮の現在の首都である平壌地方に置かれており、現在の国境の枠には到底おさまらない。

 そのため当然ながら、高句麗の遺跡は三国に広がっており、また高句麗系の人びとが日本列島に渡来して残した足跡として指摘できるものも知られている。高句麗研究のむずかしさの一因は、実はそうした現状にある。」(中略)

「けっきょく高句麗は、高句麗族として把握するのが肝要であり、それ自体の民族的・文化的性格の出土文物などをふまえて追求し、そのうえで先秦時代の東北アジアにおける文化的な系譜関係のなかに位置づけて、高句麗族の形成過程をうかがい、また滅亡後の推移を通して、分解過程も明らかにする必要がある。今後の重要な課題いうべきであろう。」

 朝鮮民主主義人民共和国では社会科学の孫永鐘が高句麗会報第47号・48号で詳しく高句麗建国年号について述べているので参考になる。おおよその内容は「高句麗の建国年代については、従来紀元前3世紀末説(有国九百年説)、紀元2世紀末節(有国八百年説)、紀元前1世紀節、紀元前37年説、紀元前後説、2世紀説などの諸学説があった。今でも外国の学会では紀元前37説をとる学者が多い。我が国では高句麗史の研究が深まるにつれて1989年には紀元前3世紀〜紀元前277年説が公認されるようになった。その理由としては、「後世後期新羅の史家たちが高句麗の建国年代を引き下げた。」からだとしている。今後の研究によって高句麗建国年代が明らかになることを期待したい。東アジアにおける高句麗の歴史的意義と役割が明らかになることはきわめて重要な問題である。高句麗壁画古墳の世界遺産承認を機に大同江の河畔に「高句麗古墳壁画研究センター」が新設されことによって大きく研究が進むことが期待できる。

高句麗文化展図録巻頭の江上先生の挨拶文(抜粋)

 「約800年間東北アジアの大国として、南朝鮮の百済・任那・倭国とはその王朝は同源で、中国東北区の夫余族の出身であり、その文化も当時の騎馬民族の間に広く行われた「胡漢文化」を共有していたからである。従って高句麗の壁画に見られる、その民族の社会・軍事・風俗・芸能などのすべては、そのまま大和朝廷治下の倭国(日本)の姿を復元するための、無比の歴史的、美術的資料と言ってよい程、われわれにとり貴重な、興味深いものである。」

1986年12月 高句麗文化展代表団訪朝
団長 文東建(朝鮮画報社社長)・江上波夫(東大名誉教授)・堀四志夫(NHK文化センター社長)・森浩一(同志社大学教授)・黒岩重吾(作家)・永島暉臣慎(大阪市文化財協会調査課長)・李景薫(朝鮮画報社副編集局長)他

金日成主席は親しく江上波夫会長をねぎらい、コックつきで別邸に招待した。その往復は双発のゼット機であった。

 代表団は高句麗壁画古墳の永久保存のための機器類を一部寄贈したが、共和国の関係者との間で高句麗壁画古墳の世界遺産登録の話題が初めてあがった。

1988年6月(昭和63年) 高句麗会設立

会長 江上波夫・副会長 久野健・上田正昭
創立発起人・理事 網干善教・井上英雄・稲葉和也・岩崎卓也・上原和・片桐正夫・黒岩重吾・永島暉臣慎・堀四志夫・森浩一・佐伯有清・田村晃一
事務局長 伊藤利光・広瀬一隆・李景薫
目的 この会の目的は古代日本と高句麗文化の研究を中心に、日朝中の学術と文化芸術の交流をおこなうことである。必要に応じて、上記に関する出版や展示会などの事業を行う。

1988年8月8日より16日 高句麗遺跡(集安)を訪ねるツアー

コーディネーター李景薫・参加者13名

1990年7月20日より31日 第1回高句麗会代表団の派遣

団長 江上波夫・副団長 井上秀雄・幹事 永島暉臣慎・事務長 伊藤利光・参加者18名、安岳3号墳・徳興里壁画古墳・江西3墓などを視察

高句麗壁画古墳日朝シンポジゥム、挑戦博物館名宝展などの企画などで合意。

1990年9月9日 日田商工会議所・日田市制度50周年記念シンポジゥム

古代日田の実像に迫る「東アジアと古代九州」
江上波夫・森浩一・黒岩重吾・賀川光夫

 金銀錯嵌珠竜文鉄鏡がシンポジゥムの話題の中心となった。江上会長は一目見るなり「これはスキタイ系の遺物である」ことを説いた。賀川光夫もこれに同意して今後の研究を進めることを約束したが、その後不慮の死を遂げたことは残念である。現在、日中友好協会の平山郁夫会長の許可をいただき、中国で調査中を継続中である。

1991年4月12日より23日 第2回高句麗会代表団の派遣

団長 久野健・副団長 網干善教・幹事 永島暉臣慎・事務長 伊藤利光・参加者21名
NHK取材陣参加 近畿スペシャル「ピョンヤン市民」

1991年12月8日より14日 高句麗遺跡冬の朝鮮料理を訪ねる旅

コーディネーター 伊藤利光、参加者13名

 冬期のツアーのモデルとして朝鮮民主主義人民共和国観光局とモランボンツーリストと高句麗会が共同企画をしたものである。特に日本人としてははじめて通り抜けた大雪の平壌−開城間の高速道路の旅は感動的であぅた。その途中の円山で1000年前の高麗青磁の釜跡発見の情報を聞き、翌年NHKの取材が実現した経緯がある。

 ソルジェリコ食堂の宮廷料理は、従来の日本における韓国・朝鮮料理の範囲をはるかに超えたすばらしいもので、朝鮮料理が苦手な年配の方もすんなりと平壌の味覚になじむことができたようである。13人の客に20数名の係りがついていた。真冬のピョンヤン冷麺と民族食堂本格的なプルコギの味も忘れがたいものであった。

1992年1月31日 江上波夫会長文化勲章受勲記念祝賀講演会・パーティー

共催 東アジアの文化を考える会・高句麗会
会場 学士会館
挨拶 平山郁夫
記念講演 飛鳥・白鳳仏と朝鮮古代仏 久野健
  日本騎馬民族説は実証された
  夫余系騎馬民族−辰王朝−金官加羅―大和朝廷への道 江上波夫

 この日から平山郁夫東京藝術大学学長を最高顧問としてお迎えし、共和国より1992年の4・15春の芸術祭に招請状が届けられたが、学長行事などの理由で訪朝ができなかった。

1992年4月10日〜21日(平成4年4月)  第3回高句麗会代表団訪朝

団長 江上波夫・広瀬一隆・伊藤利光

 文化芸術部(文部省)部長・チャンチョル副総理の招請によるもので、金日成主席生誕80周年祝典に参加した。式典に先立ち、金日成主席は江上会長と親しく会談を行い、「高句麗文化展」の成功についての謝辞と今後の文化交流についての協力を要請された。そして主席を囲む記念撮影があった。

 チャンチョル副総理との会談は2回に及び、高句麗壁画古墳の保存問題や今後の学術文化交流についての具体的な討議の結果、この秋10月よりNHKの大型番組の取材が継続的に行われた。共和国ではこの頃から檀君神話の再検討、古代朝鮮の大同江流域を中心とした古代文明の発生などについての学会の調査・研究が行われた。楽浪に関しても平壌区域の隣接する楽浪は古朝鮮の流れを汲む楽浪国であって漢の直轄領である楽浪郡ではないという研究成果を発表した。戦後50年を経過して朝鮮民主主義人民共和国は自らの手で民族の考古・歴史についての考察を取りまとめ、旧来の日本の皇室史観にもとづく歴史観を払拭した。

金日成主席、中国大使、江上波夫会長、中国とタイの舞姫に囲まれて、中央の金日成主席の横2人おいて江上波夫会長、右上に広瀬一隆と伊藤利光

1992年10月7日〜11月3日(平成4年) NHK ハイビジョン中継車がマンギョンボン号で海を渡り大型番組を制作

NHKスペシャル番組「騎馬民族の道はるか」
 慈江道楚山郡雲坪里には高句麗時代の古墳群がある。鴨緑江に面した狭い平野部に古墳が分布している。雲坪里古墳群第IV地区の10基の古墳は中国の集安のものとは違い方形、円形、楕円形や前方後円墳もある。壁面に漆喰が塗られたものもある。紀元前2世紀ごろの築造とされているが今後の研究調査が待たれる。

出演 江上波夫・森浩一・永島暉臣慎
NHKハイビジョン番組「よみがえる騎馬の民」
NHK現代ジャーナル「変わる日本古代史像」
出演 森浩一
NHK大阪ニュース番組「高麗青磁」・「楽浪」

 この間に撮影されたハイビジョンVTRは将来の高句麗壁画古墳保存のための資料として共和国へ寄贈された。
 特に戦後初めての外国人の取材が許可された慈江道の撮影は10月24日から26日にかけて行われたが、例年にない豪雨のために撮影不可能となったが、チャンチョル副総理主催の歓迎会の席上で江上会長と森浩一教授の必死の口説きに副総理が折れて金日成主席へ取り次いだ結果許可が出た。聞くところによれば人民軍の兵士とその地域の人びと1500人が総出し徹夜で決壊した道路を修復したそうである。ハイビジョンの撮影のためにその道路を電源車が静かに通り抜けた。歴史的な記録というべきである。日朝国交回復の暁には再度番組の上映を期待したい。

1997年4月12日より30日 高句麗会学術代表団の派遣

小学館創立70周年記念行事
小学館世界美術大全集「東洋編―高句麗・新羅・百済」の取材

高句麗会事務局 伊藤利光・伊藤幸子
編集長 折橋俊英
責任編集者 菊竹淳一(九州大学部文学部教授)・吉田宏志(大和文華館)
編集担当 吉良文男(一ツ橋美術センター)
撮影担当 栗原貞雄・安西秀樹(アート光村)・上鍵隆(奈良写真美術館)

 2年続きの大水害の影響があり、マンギョンボン号で元山へ上陸後に平壌へ向かう途中のトンネル通過のために一日待ちとなった。東名ホテルに宿泊して港の高台にある「おばさんのみせ」で大皿一杯のあわびと塩漬けマツタケとプルコギ(焼肉)をたらふく食した。緊張していたスタッフの顔がほころんだ。店の裏山でもマツタケがふんだんに取れることで有名であう。ビールは朝日スーパードライであった。(以下年表は6月上旬に追加)
 

2004年4月12日〜17日 4・15春の友好親善芸術祭・ユネスコ代表団長平山郁夫画伯に随行
 

高句麗会事務局長 伊藤利光


 この頃の平壌は黄色のレンギョウとピンクのスモモの花に彩られた花の都と化す。故金日成主席に生誕記念日として祭典が例年行われている。私は12年間祭典に参加をしてきた。資格は高句麗会代表団として7年間、その後の5年間は平山郁夫画伯のユネスコ代表団として招聘を受けた。ただ花をめで祭りの遊びに来たわけではなく高句麗壁画古墳の世界遺産登録申請のための作業と高句麗壁画古墳と楽浪古墳のテレビ撮影が主な仕事であった。
 この間に多くの関係者が物故して、時のうつろいやすきことに感じ入り、また物故された諸先生方のご冥福を心からお祈りするものである。
 現在の共和国見解では、朝鮮民主主義人民共和国は5000年の昔から大同江河畔に成立した朝鮮民族説を採っているが、東アジアの歴史の大きなながれ見るとユウラシャ大陸の騎馬民族の興亡が中国、朝鮮、日本の各民族に強弱はあっても影響を与えたことは確かである。今度の訪朝はユネスコ代表団による高句麗壁画古墳の保存問題が主たる目的であったが、ついでに大同江河畔に発生したという文明の萌芽を見ることができた。平山郁夫画伯も盛んにスケッチをされていた。はるか数千年の歴史のなかに尽きることなく続いたシルクロードの盛衰をくまなく歩かれた画伯にとっては、大同江河畔の文明もその画題一つである。大同江は今でも母なる大河である。到着の夜に行われた民族食堂の歓迎夕食会では大物の鯉と雷魚活け作りがメインデッシュとして饗されたが誠に美味なる魚であった。日本では鯉ヘルペスというウイルス性の細菌まで蔓延しているので、生魚を食することはなかったが、これは例外で子供の頃、郷里水郷日田での味覚がよみがえるほどの味覚の経験であった。

ユネスコ代表団訪朝日記

ユネスコ代表団 団長 平山郁夫画伯(東京藝術大学学長)
団員 平山美智子(夫人)
団員 野口昇(日本ユネスコ協会連盟理事長)
団員 野口久美子(夫人)
団員 玉井賢二(文化財保護・芸術研究助成財団専務理事)
団員 伊藤利光(高句麗会事務局長)
4月12日     17時25分 成田発 NH955便                 20時05分 北京到着 北京飯店宿泊4月13日    11時30分 北京発 JS152便                14時25分 平壌到着 高麗ホテル宿泊
 

キムジョンホ春の友好親善芸術祭会長主催の歓迎夕食会

左から玉井専務理事・平山夫人・平山団長・野口理事長・野口夫人   中央がキムジョンホ会長

 宴会場の民族食堂は、故チャンチョル文化大臣(副総理)が外国の要人用に開設した朝鮮料理でもてなす地下1階にある民族食堂である。1階は共和国の物産(陶磁器・刺繍・細工物)の販売店があるが、撞球場とパソコンゲーム場が新設されていた。大勢の若者がゲームに熱中していた。このような変化はここだけではなく町中いたるところで見受けられた。明らかに開国のサインが出されているように見えた。
 昨年は訪朝できなかったので変化のきざしがより大きく見えた。第一に挨拶の前段で必ず長々と金日成主席と金正日将軍(総書記)の功績が述べられていたが今回はそれがほとんど影を潜めていた。第二に街中の看板とスローガンが劇的に変化したことである。以前は軍服姿の主席と将軍の肖像や軍人と労働者とインテリーの団結を呼びかける図、各地を視察する主席と将軍と子供や農民・労働者の図が多く見られた。金日成広場で行われた大夜会の会場でも背広姿の主席の肖像画が一つあるだけであった。ごく普通の美しい大都市の風景がそこにはあった。来年が開放と労働党の60周年記念行事が控えているためかマスゲームなどの大イベントが見られなかった。第三の変化としては街中のタクシーが消えたこと、ホテル内の免税店の品数が少ないこと、日本円で自由に買い物ができること、4・15パーティー会場のボーイが全員ブラックネクタイを締めていたことなどである。
 今年の6月末位には高句麗壁画古墳の世界遺産登録がほぼ確定されることと6カ国協議の進展が期待されることなどから、この国は明らかかに開国を見据えた準備が整ったと見てよい。

4月14日  高麗ホテルの朝食は例年3階の大食堂でとることになっていたが、今回はその中の独立した特別室が用意されていた。ユネスコ代表団の意義が特別なものであることを示唆していた。日朝間の拉致問題がトゲとなり今回の日本からの招待客の数は目に見えて少なくなり、サービス要員も日本語を話す人も少ないようで不便であった。

同日  10時30分より12時

文物保存局との会議

ホテルの大会議室リーウイハ局次長ほか・ユネスコ代表団 リーウイハ局次長は今までの高句麗遺跡の発掘現場の責任者として陣頭指揮をした人である。現場で問題が起きるとどこからともなく現れて解決をしてくれる頼もしい人である。今は次長の要職者として現れた。年齢も62歳とのことで新旧交代の時期を迎えていることを実感した。通訳は52歳になった曹喜勝社会科学院歴史研究所所長(博士)である。1985年の高句麗文化展のシンポジゥムに帰国者の代表として出席したときには弱冠32歳の新進の歴史学者として故郷岡山に錦を飾った。その論説は1963年「社会科学」に発表された金錫享の「日本分国論」の展開であった。内容は従来の日本の朝鮮半島支配の構図を逆転した画期的な考察である。「日本が百済・新羅・任那などを支配していたのではなく、この三国が日本列島内に分国を置いて支配し、経営をしていた」というものである。

調印式

 平山団長より今回、よほどの事情がない限り中国の集安と朝鮮民主主義人民共和国にある高句麗古墳遺跡が世界遺産に登録されるだろう。世界各国も協力的で韓国・イタリア・フランスなども高句麗遺跡の世界遺産への登録を支援している。今年6月に中国蘇州で行われる世界遺産会議には日本代表も出席して支援をする。承認を機会に「高句麗壁画古墳保存研究センター」の建設資金として、総額80万ドルのうち30万ドルを日本ユネスコより支援する。などの発言があった。リーウイハ局次長より、古墳群と周辺環境の保存が順調に行われている。研究所の敷地も決定した。などの報告があった。敷地視察後に続けて朝鮮ユネスコ民族委員会のリーホンセク次長も参加して調印式が行われた。

手前よりリーホンセク次長・玉井専務理事・平山団長・野口理事長・リーウイハ局次長

 研究所の敷地を視察したいとの代表団の意見をすぐさま対応して、昼食前に大同江楽浪地区にある研究所の建築予定敷地の視察が行われた。

 大同江の左が平壌市街中心地、木々の塔がチュチェ思想塔、これよりやや下流域が楽浪地区である。高句麗古墳研究センターは風光明媚な一等地に建築される。大きな敷地は将来の増築も可能である。楽浪公園も予定されている。

4月15日 太陽節 93 4・15春の友好親善芸術祭

 今朝は特別の日である。食堂でフルコースのサービスがあった。今年の浅漬けのキムチも上出来で白菜に質も申し分のないできであった。お代わりをした。8時、朝食後直ちに出発する。

湖南里四神塚

 四神図で有名な湖南里四神塚は平壌市内より約20kmの三石区域聖文里にある。5世紀末か6世紀初頭の高句麗壁画古墳である。これより上流の俵大遺跡は高句麗時代から新石器時代のさかのぼる重層遺跡である。いかにも大同江河畔は5000年前に世界の5大文明に比肩する大文明が発生したという雰囲気のあるところである。

 今共和国では戦後の自主独立路線の考古・古代史の調査・研究の結果を継続的に発表している。日朝間はあまりにも学術交流の機会が少ないために縄文・弥生・古墳時代の相互の強い影響にあった歴史観が位置的に矮小化されたり、消されたりしているのが現状である。新しい高句麗遺跡研究センターができるのを機会に東北アジアにおける古代日本と中国と朝鮮の関係がみなおされることを期待する。

俵大遺跡

 古墳時代の瓦、土器・紀元前の支脚墓・新石器時代の石器(磨石、磨棒、打製石斧,磨製石斧、石鏃,石鎌、石錘など多数)・櫛目文土器類が発掘された。

2002年秋の発掘現場、今年ここの左上のあたりで新石器時代の工房炉跡が発見された。東北アジアでは初。

俵大遺跡(高句麗時代から7000年前の新石器までの複合遺跡)をスケッチする平山郁夫画伯

6000年前と推定される住居跡、この手前に東アジア初の土器製造の炉跡が発見された。

金日成広場の大夜会

 全国から集合した男女が平壌市の中心部にある広場でフオークダンスを踊る。正面にはチュチェ思想塔がそびえ、広場の後部には人民大学習堂がある。年に一度の大祭典である。


15万人参加の大夜会、外国人招待客は人民大学習堂の階段から見物をするが参加することもできる。

4月16日視察 徳興里(とくこうり))壁画古墳

位置 南浦市江西区徳興里 408年

 羨道・前室・玄室からなる石築の壁画古墳ある。壁画は石の上の漆喰塗りに描かれたものである。人物風俗画の秀作である。西方1.8kmには江西三墓がある。この古墳は1976年12月8日に発見された。築造年代と被葬者の名前が記載されている。

主人公の墓誌

 全室北壁に主人公の墓誌が記載されている。墓誌には鎮という主人公の名、故郷は信都。高麗史によれば、現在の雲田地方の博川である。鎮は建威将軍に始まり、国少大兄、左将軍、遼東太守、使持節東夷校尉,幽州刺使の官職を歴任した。鎮は第19代の高句麗王好太王(廣開土王)の臣下であり、77歳で死去し、永楽18年(408年)にここに葬られた。

墓誌、永楽という年号は廣開土王が独自に用いた年号である。絶対年号が判明したことで古墳の研究が進展した。

 日本古来の伝統行事とされる牽牛・織女の七夕さまや神社の恒例行事である流鏑馬(やぶさめ)はこの古墳の中の壁画として描かれている。5世紀の初頭は仏教が入り始めた頃であるが、まだ道教の影響が色濃く残っているのがわかる。天上位部分の図は道教的である。

牽牛と織女

前質天井に描かれた牽牛と織女七月の七夕に逢う瀬を楽しむ。織女が犬を連れているのは初めである。

流鏑馬(やぶさめ)

朝鮮では馬射戯と呼んでいる。高句麗人の騎射に優れたことは有名であるが、具体的な騎射図は初めてである。玄室西壁に描かれている。

墓主図

4月17日

北京経由で帰国

8時10分 平壌発  9時北京到着

12時より 在中華人民共和国日本国大使館公使井出敬二広報文化部長主催の昼食会
13時より 記者発表
 日本大使館で高句麗壁画古墳の世界遺産への承認の見通しと高句麗遺跡研究センターへの助成金の件について発表した。約20数社が取材に参加していた。
14時55分 北京発
16時30分 成田到着

ユネスコの世界遺産会議は6月27日から7月3日まで中国蘇州で開催される。ここで中国の集安と平壌を中心とした高句麗壁画古墳群が一括承認される。